てぬかりブログ

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人間社会に「意思」は必要か

目次

目次 前文 はじめに 知的生物 知能の目的 文明 働きたくない おわりに

 

 

前文

こんにちは。

 

 

はじめに

人間は「社会性」を持つ動物、と言われることが多いです。人間に限りませんが。

私は、「社会性を持つ」とはつまり、個体が全体のために行動することだと解釈しています。

たとえば他者が食べる作物を作る、物品を運搬する、複数人が居住する建物を建てる、人間がいままで集積した知識をまた別の誰かに伝達する、など、確かに人間の活動は他の個体のために行われることも多いかもしれません。(そういえば「建物」って「建てる」方が主題なんですね、「使う」方でなく)

これを「人間全体がひとつの生き物」と例えられることがあります。

なるほど、言い得て妙だと思います。

だって、複雑な生き物は、多くの細胞からなっていますから。人間たちがそれぞれ役割を持って人間社会を運営している様が、細胞たちがそれぞれ役割を持って生物の一個体を運営しているが如く、というわけですね。

 

ここで私が考えたいのが、人間社会に「意思」は必要か、ということです。

 

 

知的生物

ここで言う「意思」とは、「考える知能を持つ」と言い換えることができます。人間はこれを持っています。

皆さんは脚が勝手に体から脱却してどこかに歩いて行ってしまったことはあるでしょうか。脳が突然血液を送るポンプになってしまったことは?私はありません(と思います)。

もし人間を構成する細胞が思い思いの行動を始めたら、人間の体はばらばらになってしまいます。しかし、そうはなりません。細胞は「思い思い」の思うことができないからです。

細胞さんは生まれながらに与えられた場所と役割を忠実にこなします。これは細胞さんが偉いからではなく、それ以外のことに思いを馳せる知能がないから、ではないでしょうか。

 

細胞はもともと一つの生物だった、という学説があります。

まず、生物には単細胞生物と多細胞生物の2種類があります。人間は先ほど何度か述べているように複数の細胞からなっており、これを多細胞生物といいます。対してアメーバやゾウリムシといった単細胞生物は一つの細胞がひとつの生物です。

しかし、多細胞生物を構成する細胞も、もともとは単細胞生物が進化したもので、つまり単細胞生物が他の単細胞生物と共生や接着をしてゆき、最終的に多細胞生物の一部として特殊な機能に特化したものだという考え方があるのです。

細胞はほとんど知能を持たずに単一の役割のみを行っていますが、そのため生物はばらばらになることなく生命活動を続けることができます。

ならば、人間社会でも同じではないでしょうか。

生まれながらに役割を与えられて、意識を低く保ったままただその役割だけをまっとうする方が、人間全体にとっては都合がよさそうだと思います、ね。

 

 

知能の目的

そもそも人間が高い知能を持っているのは、そのように進化したからです。進化論です。

たまたま生まれた頭が良い個体が生き残りやすく頭が良い個体が増えていったのか「頭が良ければ生存戦略に有利だろうなぁ……」と思って頑張ってそうなったのかはわかりません。

ここで考えたいのは、いずれにせよ、ヒト族(学術的には「ヒト亜族」)としての生存能力ではなく、各個体の生存能力の向上が大きいだろうと思われることです。

知能を発達させる進化は、各個体の生存能力を上げることにより、結果としてヒトという種の生存能力を上げることに繋げているのです。といいますか、とりあえず知能の進化は各個体の生存能力を上げるためだということです。これの反対は多産の生物ですね。

つまり人間が持つ高い知能は、ただ生き残りやすいというだけで、ヒト社会の形成に役立つわけではないんじゃないの、と言いたいのですよ、私は。

では、人間社会において各個体が持つ「意思」くんだりはなんなの、どう役立つの。

どう役立つの〜〜〜

 

 

文明

現在の人間はもはや他の動物との生存競争を超越し、自らが狩猟や農耕を行わなくとも生きるだけには全く困らない生活をしています。発展途上国の極一部などそうでない者もいますが、これを読むことができる環境にある人はまず生きるだけには困らないと思います。

この高度な社会では、一部の個体が他の多くの個体の食料を生産でき、結果として一部の個体は生存に直接関係のないことをしていても、問題ありません。野球選手も画家も店員も、生存には直接は関係していないですね。

知能が高まった結果生活に余裕ができたのか、生活に余裕を生むために知能を高めたのかはわかりません。

ここで、自ら狩猟をしなくてもおまんま食いっぱぐれない人間以外の動物を考えてみると、身近に思いつくものがいますね。ペットとして人間に飼われているイヌネコです。

この動物たちはたまたまペットとして飼われている個体が狩猟の必要がないだけともいえますが、人間だってたまたま豊かな地に生まれた個体は狩猟の必要がないだけで、別に生体活動が体内で完結しているわけではないので、仮に野生動物を食べて火を起こして洞窟で暮らしている人間の元に生まれれば狩猟の必要はありますよね。

つまり人間も、ペットと同様に、衣食住を生産する人間に飼われているという見方ができます。

飼われるペットがかわいい代わりに飼われる人間は働くのです。ワンワン。

 

 

働きたくない

多くの人間は動かなくてよいなら動きたくないはずです。人間に飼われている人間は食べ物に困らないはずなのに、なぜ働くのでしょうか。

それは、働かないと金銭が手に入らないからです。

金銭とは、食べ物と交換できることになっている石です。

例えばあなたが食べ物を持っていたとします。そこに誰かが石を持ってきて、その石と食べ物の交換を要求してきたらどうしますか?はっ倒しますよね。しかしこの世はそれがまかり通ります。まかり通るように誰かが決めているからです。

石を食べ物と交換できるように決めて、それに従わない人間を複数人で殴ります。その複数人には報酬として石をあげます。これを「貨幣制度」と「司法制度」と呼びます。

これを高度に発展させると、働かなくても(=狩猟や農耕をしなくても)食べ物はあるが、働かないと食べ物にはありつけない制度が出来上がります。

現代社会人は自分を人質に取られているのです。別に悪いと言っていないですし共産主義を掲げているわけじゃないですからね。

 

よく会社員を「社会の歯車」と形容します。最近では「家畜」をもじった「社畜」という言葉も生まれています。どちらも「社会の構成員における、個人の意思の必要のなさ」を形容した言葉です。やはり、人間社会に意思は必要ないのでは……。

 

 

おわりに

効率化された意思なき人員による人間社会を突き詰めるとディストピアになると思います。私は娯楽が欲しいですし、一部の人間だけで全人類の生活を産出する技術を得ながらにして人間たちを堕落させないという貨幣制度を素晴らしいと思います。

意思なき人間、さらにヒューマンエラーを起こさないといえばロボットですか。

ロボット、人工知能の発展によって人間の仕事が奪われるらしいですが、どうなんでしょうね。わざわざ働く必要がない人間を働かせる制度を開発した人間が、そんなことにはしないのではないかと思います。「仕事を『奪われる』」って。本来そこで賃金を得ていた人間なら働く必要がなくなっても金銭を得ていいでしょう。プラスでロボットのランニングコストしかかからないのですから。

「自分が働いているのに働かずに金銭を得ている人間がいるから」と怒る人間ばかりになって社会が動かなくなるからこそでしょうが、おかしいですよね、他者が働かないことで自分は損をしません。考えるほど、究極の人間社会に個人の意思は必要ないことになります。